思い立ってブログを書こうと思ったのはいつぶりか。最近はずっと「書き続けなければいけない」という使命感で文章を書いていた気がする。
朝井リョウの『スター』という本のせいだ。上手く言葉にできないくせに、言葉にしたくなってしまった。
この本の特徴的な部分として作中にいくつも出てくる「対話」のシーンが挙げられる。ただ人と話すだけじゃ、足りなくて、どうしようもなく何かが欠けてるときの、答えを手探りで見つけようとする、みたいな、そういうシーン。これもまた上手く言葉できなくてモヤモヤしてしまう。
「対話」。簡単なようで、難しいよな。
自分はいつ人と対話をしただろうか。そもそも、何かと向き合ったことはあったか。
こういうとき走馬灯のように思い出す光景がいくつかある。高3の文化祭の終わり、「委員長の話」とかいう大それたタイトルで泣きじゃくりながら話す場面。「わたしが委員長でよかったと思う人は後でこっそり教えに来てくださいね」とか言ってみたりした場面。そのあとすぐに、1回も話したことなかった後輩の男の子が、わたしに向かって「ありがとうございました」って、真っ直ぐな目で深々とお礼をして去っていった場面。そのあと呆然と立ち尽くすわたしがまた泣いてるのも見える。あんな真っ直ぐにお礼を言われたのは初めてだった。後片付けを全て終えて、生徒の中で一番遅くに学校から出たわたしを待っていてくれた後輩2人が「先輩が委員長でよかったです」って、また真っ直ぐな目で言ってくれた場面。「こっそり教えに」の約束を果たすために待っててくれた、らしかった。帰り道、3年間一緒に委員会の仕事を頑張ってきた相棒に「泣いてる横山を慰めるのはわたしだと思ってた」と泣かせてしまった場面。わたしが後夜祭で泣いていたときに横にいたのが自分じゃなかったことが悔しかったと言われた。
多分、確かにあの時のわたしは、目の前にあること全てに向き合おうと必死だった。蘇ってくる場面の全てが、がむしゃらに投げてたボールを受け取ってくれた誰かがボールを渡し返してくれた結果のように思える。あれは文化祭との「対話」で、それに参加する不特定多数との「対話」でもあったのかもしれない。
どうして今になって、こんなことを書いているのか、自分でも分からない。文化祭が終わったあとに書こうとしたブログの下書きは、未だに3行で止まっている。あのとき書くことができなかった色んな気持ちは、わたしの心の内側でずっと熱を帯びたままだった。
「過去の栄光」に縋るようで情けないな。ここ最近のわたしは、本当にどうしようもなくボロボロで、『堕落生活とマイナスマインド』そのままだ。強いていうなら、自分に向き合ってる、とでも言うのか。「自分探し中の旅」とか、自分が一番嫌いで、自分に一番適した言葉だな。
やっぱり『スター』のせいだ。もっと言えば朝井リョウのせいだ。朝井リョウを読みすぎて、どことなく書き方まで似てしまったように思うし。書き始めて止まらなくなるこの感覚、本当に久しぶりで、感情が押し寄せてきてダムが崩壊するみたいに抑えられなくなってしまう。
猛烈に誰か/何かと「対話」がしたい。向き合って、ボロボロになりたい。何もかもが足りないことを知って、ゼロになりたい。意地もプライドを持ち合わせたまま、頑固に「対話」がしたい。
それができない、できてない現状は、結局、全部身から出た錆。