堕落した生活とマイナスマインド

こんな時代にブログ始めました。

自転車

 自転車に乗るのが好きだ。中学のときは自転車通学で、毎日20分くらいかけて橋を渡ったり急な坂道を登ったりしながら友達と通学するのが好きだった。田舎の人は自転車を漕ぐのが早いとよく言われるがあれはホントだと思う。私が早く漕げるわけじゃないけど。

 隣町の本屋に行った。途中で自転車がパンクした。「もうどうにでもなれ」と思ってそのまま漕ぐ。人とすれ違うと「うわあ絶対今自転車パンクしてる人だと思われたじゃん、最悪」と、思う。がたがたと不規則に揺れる自転車がパンクのせいなのか、私の自意識過剰による動悸のせいなのかわからないな、とどうでもいいことも考えてしまう。がたがた言うタイヤのリズムに合わせてラップでもしてみようかな、できないけどなんて思ったり(思わなかったり)。そのまま自転車を漕ぎ続けて、本屋に着く。

 本屋には、目当てのものは無かった。そのまま帰るのも癪だったので、美容室で髪でも切って帰ろうかなと思ったら、満員で入れなかった。平気な顔して二日後に予約を入れて帰路に就く。自転車のパンクは悪化していた。誰にも聞こえないくらいの大きさの舌打ちをする。「チッ」。大して悲しくもないはずなのに、パンクしてる自転車を漕いでるとなんだか泣きそうになった。あれは魔法か何かだろうか。泣きたくなったときはパンクした自転車に乗ればいいと思う。お勧めの方法だ。そんな気分だったので、行きよりも早くなった自転車のがたがたに合わせてラップをしながら帰った。もちろん嘘だよ。

 後日髪の毛を切りに行ったら、何を間違えたのかクラゲになってしまった。魔法…。もしこれを読んでいるあなたがたとえ私の髪型を見てクラゲだと思ったとしても、「君の髪型クラゲみたいだね」とは言ってはいけない。それを言っていいのは私本人とクラゲ本人だけだ。

 しばらくパンクは直さないでおこうと思う。自転車屋に持っていくのが面倒くさいからであって、それ以外の理由は決してない。

私はまだ空が飛べるのか

 私の家のレンジはゼロを数える。ゼロの後に完了を知らせる音が鳴る。ピピピピピピピ。私はそれをただ眺める。

 私の家のテレビは、朝、3日に1回くらいの頻度で流れないはずのBSを表示する。その前の日の夜にどのテレビ局を見てようが、朝起きてテレビを付けると、なぜか誰も見るはずのないBSを表示する。音量は決まって29。ボサボサの頭で、リモコンを操作する。

 私の部屋にある最新式のライトは、私の操作とは関係なく、消えることがある。パッ。消えたら、付ける。消えたら、付けるだけ。

 だけど、きっとそれらはいつか私のスイッチを押す。些細な違和感が、私の大きな、何かのスイッチを押す。幾度となく繰り返される違和感が、日常の中で蓄積されて、レンジを叩いて壊したい気持ちにさせ、テレビのリモコンを投げ飛ばしたい気持ちになる。

 実際私は、レンジの前で立ち尽くしたことがある。違和感の中に引き摺り込まれるように。「なんでだよ、なんでだよ、なんでゼロを数えるんだよ」と、心の中で思いつつ、そのもっと心の奥深くでは何か別の膨大な違和感に抵抗していたのだと、思う。グアアアと込み上げてくるものに引っ張られて動けなくなる。普段だったらなんとも思わない、何百回と見たゼロの表示とその後に聞こえる音が、そんな些細な違和感が、私の最後のスイッチを押したのかもしれない。

 私は、というより最近の世界は、大きな違和感の渦の中にいる。渦中。テレビを見てると、漠然とした不安に襲われる。漠然とした、というより、正体を隠しておきたい不安に襲われる。抵抗をしようにも、飲み込まれる。戦おうにも術がない。力はあっても、それをうまく使えない。そんなときにも、レンジはゼロを数える。ゼロの表示を茫然と眺める。グアアアと込み上げてくるものを押し殺す。自分は直向きに現状と向き合うことが、仕事だ。逃げ出したら負けてしまう。そのときに自分を責めるのは、紛れもなく自分だ。

 私はいつか、レンジのゼロに、違和感を覚えなくなるのだろうか。見ることのできないBSを表示する音量29のテレビに、甘んじるときが来るのだろうか。突然消えるライトに、なぜ?と思わなくなるのだろうか。大きな、渦の中にあるこの世界の、この状況に、疑問を覚えなくなるのだろうか。

 学校に行けない日々がもう2ヶ月続いている。窓の外を眺めると、桜は散り木には葉が茂っている。いつのまにか、18時に星が見えなくなった。世界はまだ違和感の渦中にいる。まだ、まだ、これは当たり前ではないと足掻ける。

 私はまだ抵抗できるか。違和感の中に飛び込んで、核を掴んで、仲間に引き入れることはできるか。この状況を飛び越えて、活路を見出すことができるのか。私はまだ空が飛べるのか?

 世界はまだ、違和感の中にある。当たり前になるな、と必死に抵抗している誰かがそこにいる。

好きな曲を紹介するブログ

 タイトルの通り、シンプルに私が好きな曲を紹介しようと思う。紹介する曲のYouTubeへのリンクを貼っておくので気になったら聴いてほしい。

 

 1.  桜の詩 / KANA-BOON

KANA-BOONにはさくらのうたと読む曲が2つある。1つ目は平仮名表記の『さくらのうた』、2つ目は漢字表記の『桜の詩』。先にCD化され発表されたのは平仮名表記の方で、KANA-BOONがインディーズで出した初の全国流通版『僕がCDを出したら』の1番最後に収録されている。その後、対をなす楽曲としてメジャーデビュー後の2ndシングル『結晶星』のB面に収録されたのが漢字表記の『桜の詩』だ。今回は、漢字表記の『桜の詩』について紹介するが、気になったらどちらも聴いてみてほしい。この『桜の詩』で特に好きな部分がこちら。

叶わない、叶わないけど構わない そう言える、そんなただ強がった大人になりたいんだけど 桜の花が舞ってあなたの声を思い出してしまう

私が好きなKANA-BOONのすごく不器用で率直な歌詞がこの曲にはすごくよく現れている。KANA-BOONの歌詞を書いているGt.&Vo.谷口鮪はどんな恋愛を思って、この歌詞を書いたのか。思わず涙が出てしまうような名曲。

レッツゴーYouTubehttps://youtu.be/LKYl6-HJ_vQ

 

 2.  look at the sea / おいしくるメロンパン

この曲はもう言葉など要らない。私はこの曲の前で、ただひれ伏すことしか出来ない。本当に、好みすぎる。好きすぎる。初めて聴いたのはいつだったか、2年前か1年前か、だけどこんなにも色褪せないとは。何がそんなに良いのか上手く説明できる気がしないが、まず、冒頭にナカシマさんが小声で言う「1.2.3.4」が良い。そこだけ何度も繰り返し聴いてしまうくらい良い。さらに末恐ろしいのが、こんなに中毒性のあるメンヘラ恋愛ソングを作ってしまう癖に、女とか恋愛とか結婚にあんまり興味がないこと。どうしたらこんな世界観が構築されるのか、不思議で仕方ない。

あなたの涙を呑んで あなたの吐息を吸って あなたの言葉を噛んでいたい

澄んだ声で歌うこの曲に是非酔いしれてほしい。

レッツゴーYouTubehttps://youtu.be/VtqnjYMdCAQ

 

 3.  イエス / ズーカラデル

朝、通学中によくこの曲を聴く。

見えそうで見えない答えが どうにもならん苛立ちが 小さくても消えない魔法が 未だに足を突き動かす

 という歌詞やこの曲の中で何度も繰り返される

 行かなきゃほらイエスと言え

という歌詞が、何度も何度も私の背中を押してくれている。ズーカラデルの曲に出てくる人はすごくダサかったり、すごく弱かったりする。彼ら自身も「俺らの曲を聴け!」というような、いわゆるバンドマンみたいな強さはない。いつも低姿勢でどこか斜め下を向いている。が、歌っている時の彼らは強い。目の光が最強だ。そういう彼らが作る、独特な、弱くて強い曲が私は好きだ。暗闇の中の小さな光を見たような、泥だらけだけど綺麗、みたいなそんなこの曲がとても愛おしいと思う。出来れば私しか知らないでほしい、とも思うが、たくさんの人の光になってくれ!とも思う。以前私のROCK IN JAPAN FESTIVALのレポを書いたブログでもズーカラデルの良さについて語ったので、そちらも是非。

こんな夜にお前に乗れないなんて! - 堕落した生活とマイナスマインド

レッツゴーYouTubehttps://youtu.be/hqko0yGdMi0

 

 4. 文學少女 / BURNOUT SYNDROMES

この曲、もっと言うとこのバンドに出会えたのは本当に偶然だった。この曲が表題曲となっているアルバム『文學少女』が発売されたのは2015年、隣町にあるレンタルショップと借りたCDを詰め込んだウォークマンが当時の私にとっての音楽の中心で。そのレンタルショップに立ち寄って新譜を漁っていたら、名前も知らないバンドの出したアルバムに目を惹かれた。それが『文學少女』だった。名前も知らないんだから当然曲も聴いたことがなく、完全なジャケ買い、ならぬ、ジャケ借り。結論を言うと、このアルバムが最強だった。そしてその表題曲、特に私はこの曲に惚れた。私が現在までに渡って、台詞の入っている曲を好きになるきっかけになったのもこの曲だ。一言で表すなら、とにかく美しい。歌詞からMVまで全てが美しい。曲名の通り、至る所に「文学」の要素が散りばめられている。思えば中学生の頃、小説を書く欲求を高めたのも常にこの曲だったなあ。

ただ ラストシーンのこの台詞が君以外に伝わりませんように

君以外に伝わらないように、というこの歌詞はずっと私の心の何処かにいて、時々ブログを書くときに思い出す。君以外に伝わりませんように、と思いつつ最後の台詞を選ぶのだ。

レッツゴーYouTubehttps://youtu.be/4WBpMSP_nq4

 

 5. 音楽が嫌いな女の子 / ネクライトーキー

私の高校生活を語る上で、ネクライトーキーは外せない。ネクライトーキーと私には(一方的に)深い繋がりがあって、ここで語るのはあまりに長くなりすぎてしまうので、またの機会に。今日は特にこの曲についてだけ語ろうと思う。この曲「音楽が嫌いな女の子」はミニアルバム『MEMORIES』の表題曲だ。ネクライトーキーの代表曲と言っても過言ではない。ライブでこの曲のイントロが流れた瞬間に普段堰き止めている何かが溢れ出す。ブワアアア、という感じに。だけど、それは決して楽しいだけじゃなくて、浅くない。感情が溢れ出すという表現が1番しっくりくるのだが、誰か、分かってくれる人はいるのだろうか。楽しいだけじゃなくて同時に、悔しくなったり悲しくなったり。どうしようもできない感情が一気に溢れ出てくる。きっとこの感覚は皆さんがライブでこの曲を聴いた時に分かって頂けると思う。

愛してるけど音楽大変ね

この、「音楽が嫌いな女の子」の中で心を撃ち抜かれる台詞がこれだ。愛してるけど簡単にはいかない。うまくいかない。裏切られるし、周りからも理解されない。この一言にメンバー5人の(特にギター朝日さんの)苦節の音楽人生が表れてる。とにかく最高なんだよ…(語彙力皆無)

※以下戯言

一度!一度でいいので!一度聴いて離れられなくなってほしいので!今だから出会ってほしいバンド。

レッツゴーYouTubehttps://youtu.be/yfyCSupjs1Y

 

思えば私の世界の中心はいつも音楽だったなあ。みなさんの好きな音楽は何ですか?お題箱にでも送ってください。充実したおうちライフを応援しています。

さよなら人類

木星についた!ピテカントロプスになる日はいつだ!

さるには、なりたくない…。さるには、なりたくない…。こわれた磁石を拾っている、だけ。

木星に、ついたよ。ピテカントロプスになる日が近づいてくるんだよ。

さるに、なるよ。さるに、なるよ。

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終末世界

「この世界が明日終わるとしたら何をする?」よくある、LINEのタイムラインとかでよく見た、あの質問。何の意義がある質問なのか果たして謎だが、嫌いではない。もしかしたら明日世界が終わるかもしれないと思いながら生きることは、素敵だ。と思う。終わりを感じながら生きるってなんだか情緒的で美しい。

もしかしたら今私は「この世界が明日終わるとしたら何をする?」の答え合わせを見ているのかもしれない。世界がなんらかの危機に陥ると、人々はスーパーに走る。ウイルスが流行ると、マスクが無くなる。マスクの次に、世界からティッシュ類が無くなると騒ぎ出す。そしてまたスーパーに走る。「この世界が明日終わるとしたら何をする?」その正解はどうやら「スーパーに走る」らしい。

難しい問題だ。単純に解決できそうなことほど規模が大きくなると難しい。複雑じゃない。出会ったことのない恐怖を煽られている。中国で未知のウイルスが流行る、日本でも感染者が続出、自分の住んでいる近くにも感染者がいるかもしれない、ここでマスクが品薄!もうこれで人間は大慌てになる。全ては恐怖による錯乱。やはり「スーパーに走る」しかないのだ。「この世界が明日終わるとしたら」、「スーパーに走る」。

だけどなんだかホッとする自分もいる。完璧じゃない自分を責める人は誰もいない、と思える。だって世の中にはこんなにも完璧じゃない人間が溢れている。その中で自分だけが責められることなど、あっていいはずがない。私は堕落した生活を送っているが、堕落しているのは私だけじゃない。仲間、とは呼びたくないが、同類は大勢いる。人は成長しないのだ。人類が今後数百年に渡って生存し続ける未来など、これ以上先は言わないでおこう。

私はこれを世界の、人間の、運命だと呼びたい。

特に深い意味は無い。

揺れている

 朝のだいたい7時半くらい、学校に着くと、珍しく教室には誰もいなくて電気をつける。特に深い意味は無いけど、先生側の電気だけつけない。どうでもよくてつまらない私のちょっとした反抗心。

 勉強をする。ラジオを聴きながら。タイムフリーって機能、最強。あるいはテレビを見ながら。手のひらの中のテレビも、テレビっ子の私からしたら神コンテンツ。あるいは音楽を聴きながら。だけどロックンロールは勉強のお供にはなり得ない。

 授業は大概つまらない。最近はよくグラウンドでやってる体育の授業を見る。男子のサッカー。この世で私に1番縁のないもの。風が吹くと気持ち良くなる。そのまま眠ることも少なくない。あんまり良いことじゃないけど。

 お昼は100%学食にいる。高校1年生の半分くらいから、ずっとそうだ。これには深い訳があるが、敢えて言わない。私の高校生活の様々な出来事の所以の3分の1はそれにあるが、言わない。学食のカレーはいつ食べても本当に美味しい。

 放課後、自習室に行く。もしくは生徒会室。直帰できることはほとんどない。

 いつまでも続いていくような日常だ。だけど高校生活にはタイムリミットがある。残り1年。私はどこまでも怠惰に純情に高校生活を浪費していく。

全ては嘘でありデタラメである。

 簡単で上手くいくことなんてさほど無い。誰かのことを許せない。意味のないことに腹を立てたり。世界は盲目で、私が生きていることを知らない。ただ、難しい話がしたい。

 自分自身と対峙する。鏡を見ると吐き気がする。人間は見えない部分が多すぎる。複雑な構造の一枚の皮に巧妙に隠された裏の裏を、陳腐な私に見抜くことはできない。大抵の人間はできないことをやろうとしない。大切なのは結局表面だ。見えない部分を見ようとはしない。だが大抵の人間について私が語れるはずもない。根拠なんてひとつもない。

 私さえ私を知らない。アイデンティティを喪失寸前。だからと言って本当にどうでもいい。私にとってとてもどうでもいい私自身のことが、誰かにとって興味あるはずがない。その誰かももはやいない。

 ここに書いてある私は私ではない。「自分は特殊能力を持った主人公になれるのか、気付く日が来る」本に書いてある。特殊能力は欲しいけど主人公にはなりたくない、という願いには柔軟に対応してもらえるだろうか。大した意味はない。

 教師への反骨心も、学校への愚痴も、生徒会室前に溜まっていく“みんなの声”も、いつか誰かの「そんな時もあったな」になって浄化できたらいいな。無駄なものなんてひとつもないと思いたいけれど。価値のないものにしか宿らないものがあると知りたいけど。高校生にしかない無敵を信じて水没したい今は。

 ここに書いてあることは私による妄想で空虚。全ては嘘でありデタラメである。と信じてる。